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DAIDO MORIYAMA by NWU Nagatani Lab.

この作品集の最初の印象は「こっちを睨んでいるな」だった。睨むのは、撮られる側の立場に立ってみると、撮られるのが嫌なとき、迷惑なときではないだろうか。「とる」は撮る、取る、盗るというふうにも捉えられる。シャッターは、時間を切り取り、その姿には、盗られたくない、見られたくない感情も記録される。これは写真を媒介として現代の個と社会の様相とも通ずるように思えた。今回の展示を、自分自身を撮る・撮られる側に身を据えて考える機会としたい。(Urata.K)

【B・F】 狩人(1972年)

歩きながら何気なくパシャ、パシャ、と切り取られた街の断片。モノクロームの中に、当時の女性像がくっきりと、しかしどこかぼんやりと浮かび上がる。その存在感から、レンズを隔てた“撮る側”の視点にも気がついた。森山さんも現像中に浮き出る女性の姿に圧倒されたのではないかと想像した。『狩人』に写る女性たちにフォーカスし、その気配と距離感を読み解くことを手がかりに構成した。(Yoshiyama.K)

【C・H】 写真よさようなら(1972年)

【C】『写真よさようなら』では、複写や反転、カラーのモノクロ化、強いストロボなどの操作によって、被写体のイメージは曖昧化され、希薄に見える。何が写っているのか判別できない写真も多くある。だからこそ、面白い。そして、考えたくなる。写真とは何か、写真を写真たらしめている要素とは何なのかーーその問いに向き合うきっかけとして、これらの作品を選んだ。(K・S)

【H】森山大道さんの写真を見ている中で、印象に残ったのがしばしば登場するフィルム映画の枠みたいなものでした。撮られているものは、人だったり風景だったりする中でふと現れるそれらは、並べてみるだけでまるで連続する映画の一場面のようになり、ただただ偶然写りこんだだけのフィルムの穴が、想像を掻き立てるものになりました。そこから「枠の中と外」という着想を得て、一枚の写真という枠の外にさらに大きな枠がある展示を考えました。(A・S)

【D・E】 光と影(1982 年)

【D】「光と影」に収められた写真は、人の記憶や経験の一瞬をコピーされて、変容する価値観に惑われない出来事が詰まっている。分厚い生地で型取りされたハットは恐らく秋冬仕様で、時代背景から持ち主は妙齢の男性だと想像できる。実用品とは言えないこのハットには、きっと特別な役割があるのだ。
私の父は頭にある手術跡をカバーするために、いつもハットを被って外出していた。帰宅すると、ポンッと机の上におき、ため息をつきながらゆっくりと椅子に座った。そんな10年以上前の事がコピーされているようだ。(Takahashi.K)

【E】この作品は、『光と影』より制作している。『光と影』を眺めた際、森山さんが撮影時にどのような状態だったのかを自然と考えていた。帯文章と写真から、「世界が澄んで見え、視界に映るものの形や素材感が(いつもより)強調されて見える・敏感になっている」状態だったと考え、その状態を額全体で表現している。写真は、ものの質感や形が印象に残るものを選び、世界が澄んで見えるという洗練された状態を写真とマットのサイズ感のバランスで、形や素材感に敏感になっている状態を写真をルーペを通して鑑賞するようにすることで表現している。(Fukasawa.M)

【G】 The world of DAIDO MORIYAMA shown by AI
Produced & Edited by Sakura Tateishi and Hina Asano
Prompt Framework and Instruction by Ahn Jun

私たちは4冊の写真集から7枚の写真を選び、それぞれをAI技術によって映像化した。森山がシャッターを切った瞬間、そこにはどんな景色が広がっていたのか。逃げる女性はどこを走っていたのか。撮影当時の街はどのように息づいていたのか。私たちは、写真に写らなかった時間や空間を想像し、AIを用いてその“見えなかった背景”の再構築を試みた。波打つ海、行き交う人々。AIが生んだ映像から、私たちの記憶にはない昭和後期の空気を感じることができた。(T・S /A・H)

【I】 Copy / Scatter  Collaged by Saya Ikebe

被写体が被写体ならざる瞬間を写し取る森山大道の作品群を素材に、写真を断片として再構成する。
箱には、面ごとに異なるモチーフを貼り分け、森山の多面性を表現するとともに、写真を印刷、複製、消費するという連鎖の可視化を試みている。
上に置かれたコピー機は、観客が新たな複製を生み出す媒介となり、「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい」という森山の時間感覚を再演する。(Ikebe.S)